12 前衛
モダニズムの芸術運動において、過激な表現によって社会を揺さぶる(変革すると言うべきか)ことを目的とした作家達のことを言う。「avant – garde(前を衛る)」、すなわち戦列の先頭に立って戦うという、言葉は戦術上の用語であるけれどもモダニストのアバンギャルド芸術家達の姿は、現実の戦争の最前線で戦う悲壮な兵士の姿というよりは、デモ隊の先頭で旗を振ったり、バリケードの上に立って大声で叫んでいる過激派学生の姿に近いことに気が付く。
何故なら、その場には、観客がいなければならないからだ。沿道の建物の中の平和な部屋の窓から警官に石を投げたり、装甲車から水をあびせられたりする様子を見下ろしつつ、面白がったり、眉をひそめたり、喝采したり、ののしったりしている群衆がいなくてはならないからだ。戦って何をなしとげるかではなく、どれだけ注目を集めるかが彼らの第一の目的である以上、観客がいなくては行動そのものが空しくなるという次第だ。
といって、アバンギャルドが全て、不真面目で無責任なものだったわけではない。真剣で大真面目だった時もある。たとえば、二十世紀初めの構成主義者達がそうである。彼等は、その頃のヨーロッパを席捲した社会運動に参加し、芸術が革命の力になることを信じ、努力した。そしてドイツ、あるいはロシアにおける革命運動に身を投じ、革命が成功してソヴィエト政権が成立した時は、いよいよ構成主義の美術・建築が、新しい国を築く現実の力となるかに思われた。大胆で過激で革新的な、建築・都市の計画案が次々に発表された。数は少ないが、実際に建てられたものもある。
しかし、アバンギャルド達の幸せは長く続かなかった。政権を安定させたスターリンは、このような芸術は、資本主義ブルジョアジーの生んだ腐敗したものであって、民衆の望むものではないと公式に宣言し、アバンギャルドは直ちに転向し、健全な芸術を制作するか、あるいは国外に追放されるかを求めたのである。まことに憐れな、というより滑稽な結末であった。バリケードの上で得意で旗を振っていたら、デモの本隊によってバリケードごとひっくり返されたようなものである。
しかし構成主義芸術家だけを笑ってはいられない。唯物史観、あるいは「科学的」発展史観を信じたのは、芸術家の中だけでなく、インテリ一般の内に沢山いた。社会の下部構造が学問・文化等を含む上部構造を決定し、社会は歴史の必然的な発展法則によって動いていく考えは、ロジックとして科学的に思われたし、なによりも心の不安を解消してくれるものだったからである。イデオロギーとしてのマルクス主義はソ連の崩壊と共に消滅したが、その考え方の断片は、今日でも、いろいろ姿をかえつつ、社会のあちこちに、人々の考え方の底に、今日でも残っている。ひっくり返されて早々に目の覚めたアバンギャルドの方が、幸せだったかもしれない。
しかし、改めて言うまでもなく、芸術の前衛が一時的に、マルクス主義唯物史観に支えられたことがあったといえ決してそこから生まれたというわけではない。新しさを求め、旧弊に抗うことは、何時の世においても、人間の常である。人の見方・感じ方を新しくすること、目覚めさせ、驚かせ、新しくすること、これは芸術の基本的なはたらきである。
驚き、そしてそれに対する人間の感覚(sense of wonder)にはいろいろある。鮮やかで深く重いものもあれば、賑やかで、浅く、軽い場合もある。
初期のアバンギャルドは消え去ったが、今日の前衛はどこにいるのか。芸術が、常に何らかの新しさを求めるものである以上、何らかのかたちで存在しないはずはない。私の見るところでは、美術の前衛達、絵画・彫刻等の前衛達は、社会の表舞台から離れ、多くの主要な公共空間から追い出され、片隅で、余計者として、あるいは余興を演ずるエンターテイナーとして生きている。その演ずる場所は、美術館、あるいはテレビ、新聞、雑誌のメディアの中に限られ、時に人々が注目したかに見える時があっても、実際に真の共感に支えられることはない。どうでもよい余計者なのだ。注目を集めんがために、更に奇声を発したとしても、一瞬集った視線は、すぐに移るだけだ。
建築は、全ての人の毎日の中で成立している仕事であるから、新しさは、様々の領域で、様々な場所で、様々な人によって日々試みられている。展覧会での展示、メディアに現われるのは、その一部の、そしてその多くの場合、現実の多様性から切り離された最も抽象的な状況のものである。いうなれば、アバンギャルドは、全世紀の生き残りの消滅危惧種のように保護区の中で残存しているのである。