吉田 鋼市の

​第15回 市谷の杜 本と活字館

 「市谷の杜」という名がつけられた大日本印刷市谷工場の整備計画が進行している。敷地全体の面積はおよそ54000平方メートルにおよぶ大規模な再開発である。工事はいくつかの工期に分けて行われ、その始まりが2009年で、2015年には25階建ての新しい本社ビルも完成しているが、工事はいまなお続いており、全体の完成は2026年になるという。その再開発に伴って、かつて「時計台」と呼ばれた市谷工場を象徴する建物が曳家され、再開発地区の中央地区の一画に保存された。そして2021年2月に「本と活字館」という名の展示施設として一般に公開されたのである。

1926年の竣工で、当初この建物は秀英舎の営業所として建てられ、その本社機能や営業部門として使われた。1935年に秀英舎と日清印刷が合併して大日本印刷となっても同じ機能をもつ施設として使われ続けた。鉄筋コンクリート造2階建てで、基本的には矩形の平面であるが、奥のほうに「時計台」の部分がL字型に突き出しており、正面の隅がカットされて玄関部分がわずかに突き出ている。1952年に3階が増築されたが、またもとの2階建てに戻されたという。設計は土居松市(1884-1925)が中心で、宮内初太郎(1892-1956)と猪瀬善三が補佐した(『株式会社秀英舎創業五十年誌』1927による)。施工は竹中工務店(「本と活字館」のご教示による)。土居は東大の卒業で、当時は東京高等工業の教授であり、鉄筋コンンクリートに関する調査・研究をし、『鉄筋コンクリート家屋構造』という本も書いている。宮内は東京高等工業の卒業で土居に教わったのであろう。横浜で施工業を営んでいた宮内半太郎(1865-1938)の長男で、おそらく施工にも詳しかったに違いなく、父親没後は施工業も世襲している。猪瀬は当時の日本建築学会名簿に「秀英舎臨時建築部」所属の准員として載っているが出身校の記載はない。後の名簿には「大林組東京支店」所属とある。建築史上においては、秀英舎はかつて銀座にあった印刷工場(1894年竣工)で鉄骨を初めて使用した例として、そしてそれが火災にあって建て替えた本社(1911年竣工)においても鉄骨とコンクリート床を用いていることで知られるが、市谷工場でもやはり構造に重きを置いて建てられたことが推測される。  

 さてこの建物、「本と活字館」の名の通り、かつての活版印刷のシーンを再現する展示館であるが、この建物自体の資史料を展示する施設でもある。実際、この建物の地盤に使われていた松杭の1本も展示されている。写植による平板で味気ない印刷を一度は嘆いた者にとっては、あの凹凸感があり、時にゆがんだり横向きになったり、インクがかすれたりしていた味わいのある活字印刷を思い出させてくれるありがたい存在である。それに入館料が無料で、先述の松杭でつくられたルーペまでもらえる。復元ではなく、曳家までしてこの建物を保存されたことに敬意を表するばかりであるが、曳家というのは1回ではすまなくて、少なくとも2回は必要で、この「本と活字館」の場合は最大40メートルの曳家により、当初の位置から10メートルほどずれた現位置に所を得たという。

 保存の手法はオーソドックスで、とりたてていうべきものとてないが、外観は当初の姿にもどす形で修理され、内装はほぼ全面的に改装されている。一部、モザイクタイルの床が保存されている。整備計画全体の設計が久米設計であるから、この建物の保存活用の設計も久米設計だと思われる。施工はフジタ(同じく「本と活字館」のご教示による)。

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正面全景。隅がカットされて突き出した玄関が時計台以上にシンボリックな雰囲気を醸し出す。

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玄関入り口。曳家された場所はもともとの場所よりもかなり高い所らしく、新しく設けられたアプローチの階段が、余計にシンボリックな感じを付け加える。

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玄関内部。この辺りはよく当初の姿を保っている。

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柱と梁の細部。刳り形もはっきりと見える。

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オリジナルの床タイル。左側の区切られたように見える部分。

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「本と活字館」と、その背後の新しい高層の本社ビル。

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かつては背後に建物が連続していたようで、それを切り離したような表現がされている。新設の幅広いブリッジの通路が近過ぎて圧迫感がある。

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柱・梁が並んでいるのが見える展示室。活版印刷した出版物や活字が展示してある。

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階段室は意外とシンプル。創建時のものではないかもしれない。

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展示されている松杭。