3 擬生命形

 

 生命の持つかたち、あるいは生命がつくり出すかたちは、人間の抱く関心の最も根本的なものであり、造形活動の根底に古くから存在していたものである。(このことは、頃を改めて述べよう。)

 今日、ひとつの流行をみせているものに、生物に似せたかたち、それは主として「グローバル」と言われて流行している建築においてみられる、がある。これは「生命形」と称して主張されることが多いので、本来の生命体と区別するために「擬生命形」と呼ぶことにしよう。

 「擬生命形」の特徴は、一言でいえば、「ぐにゃぐにゃしたかたち」である点にある。すなわち、①輪郭がはっきりしない―あるいはわざと曖昧にする。

②構造形式や構造主体がはっきりしない。

③構成要素を分節せず、連続的に扱う―たとえば壁と屋根をひとつづきの面としてつくる。

④表面の意匠に力を注ぐ、すなわち、中身=空間、は副次的に扱われる―その際には「住む人の自由にまかせる」といった理由づけがなされる―等の共通した特徴が見られる。以上を、ひとことでまとめると、「くらげのようなかたち」ということになる。

 では、なぜそのような「ぐにゃぐにゃしたかたち」を作るのか、なぜそれは好ましいのかを問おうとすると、その答は用意されていない。はじめから、そのような理論的な姿勢は無いのだ。いや、そういうギリシャの昔から人間が抱いていた根源的な問いそのものを無視しているところにその姿勢の特徴がある。その時、「理念」のかわりに用いられるのは「気分」、あるいは時代の「雰囲気」といった言葉である。かたちだけでなく、姿勢そのものがぐにゃぐにゃしているのである。

 しかし、いかなる「気分」であれ、理由なしに出てくることはない。ではこの「擬生命形」が主張される、あるいは好まれる、状況とは何なのであろうか。それは、「擬生命形」が何であるか、を考えるのではなく、それが、何でないかを考えることによって、理解される。では「擬生命形」は、何であることを嫌ったのか。何となることを(たとえ理論でなくとも気分において)拒否せんとしたのか。

 第一に、それは、科学的・合理的な理由づけ、それは建築の場合、ほとんど「機能的」という理由づけとなるが、その強制・支配に従うことを拒んだのである。確かに、建築の現実の内に仕事している者にとって、「科学」、「機能」が、合理的でもなく、又全体の真実から遠い部分的なものであることを、骨身にしみて知っている。といってそれと、正面から闘争することも、馬鹿馬鹿しい。やり過すのが、スマートな姿勢だ。これが「擬生命形」を生む第一の状況である。

 第二にそれは、社会、民衆、市民といった社会的な価値に対して、建築をつくることを拒んだのである。社会、共同体、あるいは大衆といったものも、敵にしたくはないが、といって頼りにならないものであること、皆の意見、市民の考え、といったことが安易に言われるが、実際に関わってみると、それが対立する多くの価値の共存であることを自覚せざるを得ないからである。といって、今日の社会とはいかなるものか、真剣に考えてみるのもアホらしい。かつぎ上げて、まつり上げておくのが利口だ。かくして、しらけきった大衆迎合の姿勢が生まれるのである。

 しかし、ここで、更に落ち着いて、距離を置いて考えてみるならば、こういう「気分」は、今にはじまったものではないことに気付く。「合理的なもの」、「永続的なもの」、「本質的なもの」から身をはなし、「不合理なもの」、「移ろいゆくもの」、「表面的なもの」に身をまかせたい気分は、昔からあった。誰の心の中にも、何らかの姿でひそんでいて、時と場所に応じてあらわれてくる。そのあらわれ方、あらわれるかたちは、それこそ様々だ。思想や文学の例は、ここではあえて問わない。建築の二千年の歴史をざっと眺めても、帝政末期のローマ皇帝の別邸、あるいは中世ゴシックの「フランホワイヤン」のゆらめく姿、ロココの崩壊してゆく壁体、草庵の茶室、アール・ヌーボーの洞穴のような建築・・・。

 そこには、何が、人間にとって本質的な願望、欲求があるのではないか。生命の誕生、死と復活・再生、そうしたもののかたちは何か。しかしながら残念なことにそうした重くかつ基本的な問に還ることは、「擬生命形」の軽い流行の身振りには似合わないのである。