10 有機的建築

 

 有機的建築、「オーガニック・アーキテクチュア(Organic Architecture)」は、フランク・ロイド・ライトの個性的な様式と設計理念を示す言葉として広く知られている。その理念の根本を一言で言うならば、作る者は自然に学び、そしてその作られる建築は、自然の形態や組織に従う、ということであるが、そのように一般化してみると、彼の師であったルイス・サリヴァンがそうであったように、十九世紀のゴシックリヴァイヴァル、あるいはロマン主義の流れの内にあることは確かだ。あるいは、エマソンやソローの超越主義、更に広げて東洋思想とのつながりも見ることができる。事実、ライトは老子の思想に親近感を持ち、講演や談話において言及することを好んだこともよく知られている。

 自然に関心をもち、その形態を自らの造形のモデルにすることは、芸術家なら何らかのやり方で誰しもやっていることで、たとえばモダニズムの巨匠として、ライトとはいろいろな点で対比的な、コルビュジエのスタディ・スケッチにも、貝がらのらせん形や、人間の肺臓や血管の図も登場する。ライトが嫌った古代ギリシャのオーダーでさえ、巻貝や、女の髪形や、葉っぱをモデルにしていると説明される。例はあげようとすれば、きりがない。では、ライトの特質はどこにあるか。

 彼は、自然のかたちをアナロジカルに模範したり、あるいは自然のかたちを抽象化した原理を用いたりすることをしなかった。むしろ嫌い、そのような態度を軽蔑した。彼は、自ら言うように、その本性において、アメリカの辺境の自然の中で育った野生的な自然人だったのである。それに徹する内に彼は、人間の歴史が作り出す文化的教養、伝統的な上品な趣味、といったものも嫌い拒否した。

 彼は、人間という、自分に最も近い「自然」の内に、良き秩序、良き知性そのものが、本来備わっていると考えた。それを歪めてきたのが文明であり、特に近代の科学的・技術的・都市的文明であって、そこから離れることによって私達に、すなわち自己の内にも、社会全体にも、良き秩序は回復されると考えた。抽象的・観念的な思考を捨て、具体的・肉体的行動を取るべし、としたのである。

 従って、彼の設計方法は、第一に敷地(大地と大空)、そして第二に素材(木・土・石)に即して考え、つくることにある。その素材の本来の性質―それを彼は「素材の本性(nature of material)」と呼んだ―を理解し造形することにある。石を用いるならば、本来のテクスチャー、本来のスケール、本来の組み方で用いるべきであり、古代ギリシャ人のように幾何学的形態に加工したり、ミースのように滑らかに磨き上げたりすることは、石を侮辱することだと断罪した。

 

 現代の新素材を拒否したわけではないが、ガラスを用いるなら、均一なガラス平板よりは、たとえばガラスチューブの積層、コンクリートを用いるなら、細かい装飾ブロックの組積、というように自然の素材に近いスケールを与えるべきである、としたのである。抽象的な観念によるのではなく、具体的な経験によって作る、すなわち頭だけでなく手、そして全身を用いて作る。この鮮烈な姿勢は、モダニズムの流れの中でひとり際立ち、作る人間の精神の根幹を私達に指し示す。

 「内側より外に向って」(from within outward)という言葉は彼の設計理念を示す重要な言葉である。これは内部に在る人の体の動き、心の動きに対応して空間をつくり、これを外のかたちに表現するのが、建築の正しいつくり方で、外のかたちを決めてそれに内なる人を従わせるのは誤りだ、とする考え方だが、それを更につきつめて考えてみると、次のふたつのことに気がつく。ひとつは、そのように作るためには先ず自分自身が、自然の人間として正しくあらねばならない、ということであり、次にもうひとつは、自分以外の他人―たとえば建築の内に住む人自身―も自然の人間として正しくあることを求める、ということになる。

 

 すなわち建築を作る人もそこに住む人も、共に、自然にじかに接して生きる人間でなくてはならない。観念的な自然愛好家ではなく、行動において、日々の生活において、自然の中で、自然と共に生きる人間でなくてはならない。半日を畑仕事で過し、残りの半日で、製図版にむかい、日が沈んでから本を読みあるいは楽器をかなでるというタリアセンの日課は、そうした理念の具体化であった。「内より外へ」ということは「空間の内より外へ」ということだけでなく、「自己の内より社会へ」ということでもあったと言えよう。

 ライトは、アカデミズム(特にフランスのエコール・デ・ボザール)歴史様式(特に古典様式)を嫌悪し、拒絶した。時には、自分は何者からも学んだことはなく、全て自己の内において学んだ、とさえ豪語した。当時の、陳腐化したアカデミックな古典主義あるいは、東部の都会的教養主義を拒否する姿勢は、彼の育った環境から考えて一応理解するとしても、歴史全体を拒否するとはどういうことであろうか。歴史・伝統・慣習を全て否定して到達できる、人間本来の自然状態なるものとは、果していかなるものか。

 

 そもそも私達人間が共通に持つ自然への共感・理解そのものが歴史の積み重ね、その積み重ねの中で蓄積された共同の価値ではないのか。それを全て捨てて、自然の内に還ることは、結局、極端な自己中心主義に回帰することになるのではないか。ライトの建築の内に、親しみを感じつつも、人は時に、近寄り難い疎外感を持つのは、そこにあるのではないか。そういった根本問題を私達につきつけるのが、「有機的建築」である。