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6 無限定空間

 

 モダニズムの建築理念の説明として、これ程ひんぱんに、かつ権威らしき響きを伴って、用いられてきた用語は他にない。これを更に「均質空間」といった言葉にして語の抽象度を高め、さらに権威づけようとした建築のイデオローグもいる。しかし、改めて、無限定とはどういうことなのか、いかなるものがいかように限定されていないのか問うとそのことは、極めてあいまいである、いや、まったく不明のまま用いられてきたと言うべきか。

 無限定空間とは、「ユニヴァーサル・スペース(universal space)」の訳語で、ミース・ファン・デル・ローエの言い出した言葉だとされている。そして、彼の鉄とガラスの住宅や高層のオフィスビルの計画案がその代表的実例として扱われてきた。ミースのことについては、別に論ずるとして、ここで考えたいのは、「無限定空間」と訳された日本語の概念だ。

 先ず、「無限定」が「ユニヴァーサル」の訳語だとしたら、これは誤訳であると言わねばならない。一体誰が、いつどこで使い始めたのか、知りたいところだ。"universal"に「限定しない」などという意味はどこを探しても見当たらない。その基本的意味は、中学生でも知る通り「宇宙的」、「世界的」であるということで、従ってそれは「普遍的」であったり「広く」・「一般的」だという風に使われる。限定する、しないなどということには、関係ない。

 で、原意はさておき、日本語の「無限定空間」について考えることとして、第一に、「無限定」な「空間」など存在し得るのか。言うまでもなく建築空間において存在することはあり得ない。「空間」を広く一般的に考えるならば、宇宙のどこか、あるいは哲学か数学かどこか抽象的な論理の内には存在することもあり得よう。しかし建築の空間とは、外から内を区切る、あるいはこちらの部屋とあちらの部屋を区切る、すなわち限定する、ことによってつくられるものである。これは、建築の基本のなかの基本であって、子供でも原始の人でも、体得していることだ。「無限定空間」など、建築としては、論理的にも、実際的にも、意味をなしていないのだ。

 

 事実、ミースのファンズワース邸にせよ、ミースの信奉者であったフィリップ・ジョンソンの「ガラスの家」にしても、空間は直方体の輪郭をなして鋭く区切られ、外の風を入れたくても、庭に出たくても、ままならないものだ。

 明るく晴れた秋の日、美しいニュー・イングランドの森の中の「ガラスの家」をエール大学の学生達と訪れた時、確かに区切られることなく四方に拡がる視線の解放感は見事なものであった。それだけに、自由に外に出ていけない閉鎖感に、息がつまるような思いをしたのは私だけではなかった。この空間を無限定で自由な空間だと言い張ることは、ガラスの水槽の中の金魚に向って、君達は束縛されず自由なのだ、と説くに均しい。

 次にもうひとつ譲って考えて、無限定の意味を、使用目的が限定されない、というように解するとしよう。すなわち無限定の意味を、ひとつの固定した目的に限定せず、出来るだけ多くの用途に、柔軟に対応することだと解するなら、無限定とは多目的、あるいは対応の巾の広いフレキシビリティということになる。こうなると、このことは、極めて現実的で、かつ一般的な建築課題に帰着することになる。従ってこれはモダニズム特有の理念とは言えない。兼好法師でさえ、徒然草第五十五段で、「造作は用なき所を造りたる、見るもおもしろく、よろづの用にも立ちてよし」と書いているではないか。

 

 どの程度の対応の巾を持たせるのが正しいのか、それをどのようなかたちで実現するのか、建築設計という創造の全てはまさにそこにかかっている。巾が広ければ広い程いいといった単純な話ではなく、といって単一目的の空間が理想だといった極端な話でもない。その単一と多数の両極の内に、無限の空間のかたちが存在しているのだ。一見、開放的な空間のかたちが、そのかげで極めて限定的な使い方に支えられていたりする複雑なものだ。

 

 再びジョンソンの家にもどって考えてみると、あの四方ガラスで囲われた視覚的に開放的な空間は、リヴィング・ルームという限定された目的のための空間であって、寝室は全く別棟の、窓もない壁で囲まれた空間として用意されているし、またその全体は、他人の侵入を許さない深い森、その全体が厚い壁といっていい、で限定されることによって成立しているのである。

 ことほど左様に、「無限定空間」なる語は、意味をなさないまま、数多くの建築の言説の中で、繰り返し使われてきた。内容が空虚でありながら、威勢だけがいい言葉は、空虚なイデオロギーを信奉して絶叫する者にとっては、いつでもどこでも、まことに好都合な武器なのである。

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