吉田 鋼市の

​第20回 もりおか啄木・賢治青春館

 「もりおか啄木・賢治青春館」の開館は、だいぶ前の2002年のことであるが、この元は銀行だったユニークな外観の建物が、盛岡が生んだ著名な文人、石川啄木と宮沢賢治を偲ぶ施設として生かされたのは喜ばしい。二人とも、この建物を見た可能性はある。この建物、当初は第九十銀行の本店本館として、1910(明治43)年に建てられた。わざわざ明治の年号を併記したのは、構造は煉瓦造でありながら、明治の建物とは思えない外観の新しさを示したいからである。その外観は「ネオ・ロマネスク」とも評されており、たしかに入り口左右の柱にロマネスク風の柱頭が見られはするものの、全体としてはおそらくユーゲントシュティールとかセセッションと呼ばれる当時最新のドイツ・オーストリアや東欧の造形的成果を取り入れたものであろう。しかし、見ようによっては僞洋風の建物とも見え、ともあれ異色である。

 設計は横浜勉(1878-1960)。盛岡出身で、竣工の4年前に東大を卒業したばかりの若い建築家である。この建物竣工の2年前に、同じく盛岡の城址公園に南部伯爵銅像台座を設計している(基本設計は伊東忠太によるともされる)。銅像自体は戦時中の金属供出でなくなったままだが、台座は健在、やはり強い造形的主張を示している。「もりおか啄木・賢治青春館」の展示説明に、現場監督は久田喜一で、工事係が「新沼原之進」、工事責任者は高屋捨吉と記されているが、施工は基本的には清水組が行ったようだ。久田喜一(1875-1926)は、東京高等工業学校付設工業教育養成所を出て、少し前まで岩手県立工業学校助教諭を務めており、「新沼原之進」は新沼源之進が正しいようで、彼もまた岩手県立工業学校実習助手を務めていた。高屋捨吉が清水組の人であろうか。

 第九十銀行の創立自体は、この建物の竣工よりもずっと早い1878年、第九十国立銀行としてである。1897年に第九十銀行と改称。1938年には岩手銀行、第八十八銀行とともに陸中銀行を設立。その後、岩手殖産銀行となり、岩手貯蓄銀行との合併を経て、1960年からは岩手銀行となり、この建物は長い間「いわぎんリースデータ」社屋として用いられていた。しかし、会社は存続するもこの建物は1992年、ついに閉鎖。1999年に盛岡市がこれを買い取って保存活用、3年後のオープンに至ったわけである。保存改修の設計は地元の建築事務所である渡辺敏男の<盛岡>設計同人で、施工は清水建設。なお、この建物は「いわぎんリースデータ」時代の1977年に盛岡市保存建造物に指定され、2004年に国の重要文化財となっている。国の重文指定に伴って盛岡市保存建造物指定は廃止。

 さて、この建物、やはりどこから見てもユニーク。隅部や開口部上部にゴツゴツした粗石積(ルスティカ)風の花崗岩を張り、壁面にはすべて黄褐色の化粧煉瓦を張っていて、一見、煉瓦造とは見えない。しかし、さらに目立つのが屋根で、その形は複雑で、よく全貌がとらえられないのだが、まことにメルヘンチック。若さの賜物。内部は、1階が常設展示室と喫茶室、2階が企画展示のためのホールに使われているが、さしたる構造補強は見られない。オーソドックスな保存修理工事が行われたのであろうが、後方にバリアフリーのためのスロープとエレベーター棟が増築されている。

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外観。右側面が正面入り口。煉瓦造2階建てで、ピョンと跳び出したスレート葺きの屋根が見える。

正面入り口。左右にごつい石のアーチを支えるロマネスク風の柱頭をもつツインの円柱が見られる。

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増築されたエレベーター棟。あまりスマートとはいえないような気がする。

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側面の外壁に、化粧煉瓦を外した状態の煉瓦造の外壁を示している。それで、これが煉瓦造であることがよくわかる。

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正面外観。右奥にエレベーター棟が増築されている。

外観細部。ユニークな造形。

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背後に設けられたスロープの入り口。これはまずまず。

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同じく外壁の一部に、特殊な煉瓦の積み方を表示されている。化粧煉瓦の付着をよくするために一段ごとに煉瓦が後退して積まれているという。

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一階内部。柱台座(ペデスタル)が異様に高い。その上の柱は華奢な円柱で、木の柱かと思われる。

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内部詳細。クラシックな造形も一部に見られる。