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5 機能

 

 建築の言葉としては、建物の「使用目的」、あるいはそれを実現すべき「はたらきといった意味で用いられ、たとえば「機能第一で設計してください」、とか、「有名建築家の建物は、格好は良いが、機能を無視していて、使いづらい」、といった風に使われる。

 誰でも、良く使う言葉だが、改めて、機能的なかたちとは、どういうことなのか、かたちが機能的であるということと、美しいということは、どういう関係になっているのか、考えてみると答は簡単ではない。

 確かに機能が違えば、かたちが違う。このことは、誰もが、いつも目にし、わかっていることだ。果物ナイフとパン切りナイフは、かたちが違う。目的が違い、はたらきが違うからだ。住宅と教会堂のかたちの違いは、誰の目にもはっきりしている。では、教会堂の機能とは何か、住宅の機能とは何か、と問うてみると答は簡単ではない。大雑把に言うことはすぐ出来るかもしれないが、正確に、余すことなく説明できるかというと、それは難しい。その理由は個別的なことと一般的なことが、複雑にからみあっていて、変化し多様だからだ。

 住宅全体の機能を取り出すのは難しそうだというわけで、その一部分、たとえば、台所の機能は何かと問うことにすると、大分答えやすくなることがわかるが、それでも正確に言おうとすると、今と昔、日本と外国での違いといったことにすぐつきあたる。まだ簡単ではない。では、というので、更にもっと小さい部分、たとえば流しの機能、調理台の機能という風に取り出すと、もう少し答えやすくなる。

 このように見てくると、機能は全体のかたちについては定義しにくく、それを構成している部分要素については、より定義しやすいことがわかる。ここが面白く、また大切なところだ。

 「機能」とは「ファンクション(Function)」の訳語であるが、その語源であるラテン語はまさに「パフォーマンス=はたらき」という意味であるが、かたちのはたらきとして考える時には、かたち全体のはたらきでは無くて、それを構成する部分の中の、ひとつの部分のあるはたらきを示していると理解されねばならいないのだ。すなわちかたち全体の「機能」については、言えない。ここをしっかり理解する必要があるのだが、しばしば誤解されたり、すりかえられたりする。

 「機能的だ、機能的でない」という議論の多くは、どの要素のどのはたらきについて言っているのか、はっきりなされていないまま、行われている場合がほとんどだ。あるかたちが機能に合っているか否かの議論と、決定する機能のうちの何を重視するかの議論は別のことだ。そして、かたちをつくる時に、先ず難しいのは、この機能の重みづけ、価値判断の問題なのである。たとえていえば、主婦の家事動線という機能と、老人のひなたぼっこという機能が両立できない場合、どちらを優先するのか、といった判断がそれである。

 では、機能は部分のかたちを決める力しかないのなら、全体のかたちは、どうやって決められるか。部分が集って全体をつくるわけだが、といって単純に部分のかたちを集めて足し算すれば、全体のかたちが出来るかというとそうはならない。部分の機能には、互に相反するものがあったり、重なりあったり、そして又、重要さの度合いの違いもあるからだ。全体を構成するためには部分を、それぞれの機能を最大限に発揮できるよう調停し、配分せねばならない。調和・比例・秩序といった概念は、この部分と全体の構成に関わる。

 部分と部分を調和させ、全体のかたちを決めるひとつの体系が、伝統である。すなわち伝統、トラディションという言葉の示す、過去より持ち運ばれてきた体系、過去より伝えられ今を統べる体系である。具体的な例でいうなら、主婦の労働と老人の憩いに暗黙の内にひとつの調和を与えるものが伝統である。伝統は、日常には「習慣」、形式的には「様式」としてひとつの体系をつくり上げている。「様式」とは、本来の言い方からすれば、歴史的に形成された様式のことで、広くは、モダニズムや諸々の流行のスタイルも含むことも可能である。

 

 そして、その適用の際、意識的である場合から、無意識・無自覚の場合までいろいろある。習慣や様式がなければ、部分は果てしなく流動して、全体は定まらない。しかし同時に、習慣や様式は、かたちと機能の可能性を狭めたり、抑圧したりする時もある。部分の新しい力が、全体のかたちを刷新するのはこういう時だ。いずれにせよ、このようにかたちの部分と全体の間を、上になり下になり、あるいは表にあらわれ陰にかくれたりしながら、動いているはたらきが機能なのである。

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