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7 革新

 

 革命的に新しいことを、その内容や意味の如何を問わず、そのこと自体において価値がある、とする見方は、芸術批評から、大衆的コメント、そして児童教育に至るまで、今日広く行きわたっている。絵画の通年を破棄した作品と評されればそれは最高の賛辞であり、美術教師は、子供達に、何ものにも依らず、自由に描け、と指導する。

 こうした革新礼賛は、批評や教育にとどまらず、歴史記述にも広がっている。その論の要点は、誰が最初にそれを行ったか、を見付けて指摘することであり、続いて、そのことが、どのように発展、進歩したかを説明することにある。近代建築史の著述は、そのように「言い出しっぺ探し」に終始するのが常だが、それはモダニズムの作家たちの態度が一様にそうであったから、それは当然ということになろう。だれがより革新的であるか、誰がより先にやるか、そして過激にやるか、を競い合うことで、モダニズムの流れは作られてきた。

 

 ル・コルビュジエの「建築か、革命か(建築!すなわち革命!)」と問い詰める激しい言葉、あるいは歴史ある都市パリのすべての建物を破壊して緑地にし、その上に高速道路を走らせ、高層住宅を林立させるという革命的提案、そうした態度の分かり易いイラスト画である。

 ところで、建築あるいはその集合体である都市は、個々人の生活から社会全体の制度までを含み、壮大な体系として成立している。その全体の中には、相対的に独立した個別的な体系、たとえば個別的な技術や表現技法といった領域が存在しており、それらの内には、時には、革命的な変化、たとえば、鉄骨構造の出現とか、板ガラスの生産といったようなことが起こりえるが、といってその全体は、歴史の内に徐々に形成され、人と人との内に社会的秩序として定着し、人ひとりの内に美意識あるいは生活流儀として沈着しているものであるから、急に、根本から変わることはあり得ない。むしろ、人はその本性において、それを欲しない。もしそうなったとしたら、自分達の生活・人生・人間関係等々が混乱に落ち入ることを、あるいは更には、破壊されることを、誰もが、本能的に、知っているからだ。そのことを身体的に、経験的に知っているからこそ、時に言葉の上で、革新的なプロジェクトに興味を見せたとしても、さて現実に自分の家や地域が抜本的に改造される事態が生じるや、誰もが必死で、それを拒むのである。

 建築は、ほかの芸術ジャンルに比し、制約が多いとされ、その制約の例として、構造という力学的な制約、風土、気候といった自然条件からの制約が挙げられるが、こうした制約に対応する技術的工夫は、時に抜本的に革新され得るし、そうした工夫は抵抗されずに受け入れられる場合もあり得る。建築の制約のうちで、複雑にして強固なものは、個々人の内側を支配している秩序感覚、そして人と人との関係を外側から支配している慣習や制度である。

 

 これらは、合理的な計算から生み出されたものではなく、人々が共同に経てきた過去、すなわち、歴史あるいは伝統の中で形成され、共有されているが故に、強固なものである。そしてその強固さに守られているが故に、人々は安心して共に暮らせるというものだ。それは、ひとりの人間の思いつきや、好みや、あるいはイデオロギーにもとづく、信念等でかえられるものではない。

 いってみれば、建築や都市の体系は、言語の体系に似ている。ひとつの言語は、歴史的に形成された体系である。生まれた国の言語を用いて人は生きている。詩人は、その言葉を用いて詩を書く。その言葉を根底から破壊し、あるいは破棄したとしたら、詩作そのものが成り立たない。確かに、芸術において、新しい見方、新しい用い方は、常に求められている。そこに、個性、創造性は常に働いている。そのことは、詩人においても、建築家においても変わりはない。

 

 しかし、その個性、創造性というものの自由度は、それぞれの体系の内において、という制約の内にある。あるいは、むしろ制約の力によって創造する、というべきだろう。詩人、T・S・エリオットがその詩論の中で、「伝統は、実に豊かな意味を持っている。・・・・どんな詩人、芸術家でも彼自身で意味をもつことなどないのである。」といっているように。

 勿論、人は時に本来の言語からはずれた言葉を発し、それを面白がる。幼児の叫び声や、漫才のギャグも、時には楽しいものだ。しかし言語が、全てそういうものだけになったら、落ち着いた、深い会話は成り立つべくもない。人々が、言葉の乱れに警戒している社会は健全である。批評や歴史が、幼児語や奇声暴言のみを取り上げて賞賛する美術の世界は、病んでいるか狂っている。従って人々は、そうした作品を、美術館やメディアという安全な檻の中に閉じ込めた上で、その事態を眺めて笑い、楽しむのである。

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